大学サッカー通信
第22回 大学サッカー通信 ~平松遼太郎(青森山田高校→IPU・環太平洋大学4年)
2019年01月09日
第22回 平松遼太郎(青森山田高校→IPU・環太平洋大学4年)ひらまつ りょうたろう
奈良県出身。アスペガスFCから青森山田高校サッカー部に入部。2年時の途中までBチームにいたが、この年の選手権にメンバー入りすると、3年時にはセンターバックとしてレギュラーを掴み、インターハイ3位入賞を果たす。プレミアリーグEASTでは苦しみながらも残留を決めた。
青森ゴールVOL.29、30、31、32にインタビュー掲載。
取材日 2018年12月12日(水)
平成30年度 第67回全日本大学サッカー選手権大会(インカレ)
1回戦 IPU・環太平洋大学 vs 東洋大学 @浦安市運動公園陸上競
取材:文:写真 安藤隆人
インカレ1回戦・東洋大 VS IPU・環太平洋大の一戦。
環太平洋大のキャプテンであり、3バックの左CBとして出場をした平松遼太郎の大学サッカーは、ここで幕を閉じた。
立ち上がりからDFリーダーとして周りに積極的に声を掛けると、ボールを奪ってからのフィードでカウンターの起点にもなっていた。チームも1点先行されるも、62分に同点に追いつき、そこから逆転のチャンスも作った。しかし、87分に痛恨の決勝弾を浴び、そのままタイムアップの時を迎えた。
「結果は残念ですが、もう悔しいですけど…、持てる力を東洋大さんには出せたと思います。後に託したいと思います」
試合後、平松は悔しい表情を浮かべながらも、どこか清々しい空気を出していた。
「青森山田から地方のIPU(環太平洋大)に来て、毎年インカレを経験させてもらったし、凄く良い選択が出来た。高校の時と比べて、凄く上手くなった手応えがあるので、4年間ずっとトップチームで過ごすことが出来て、人間的にも大きくさせてもらったと思います」
奈良県から「選手権に出たい、プロになりたい気持ちで行くことを決めた」と青森山田高にやってきた彼は、2年の途中まではBチームだったが、選手権でメンバー入りを果たすと、高3ではCBとしてレギュラーを掴んだ。
「菊池流帆(大阪体育大・レノファ山口内定)とCBコンビを組んで、どちらかというとヘッドで弾き返したり、気持ちでプレーする選手でした。高3のときは流帆、小坂悠登(明海大)、一学年下に常田(克人・ベガルタ仙台)という長身CBがずらりと並ぶ中で出場することが出来たのは、下手なりに頑張りが評価されたのだと思います。今、チームに何が足りなくて、どこを補えるかとずっと考えていて、それが僕にとっての『声』だった。あの3年間があったから、大学生活も怖くなかった。どの高校でも経験出来ない濃い3年間を過ごせて、自立をさせてもらう年代が早かったので、大学に来ても信念を持ってやれた。青森山田に育ててもらいました」
大学進学の際は大きな葛藤があった。山梨インターハイで3位になり、「僕の中で『良い大学から声が掛かるかな』と思っていたら、正直そんなにありませんでした」と、菊池や松木駿之介(慶應義塾大・ファジアーノ岡山内定)、小笠原学(早稲田大)らが関西、関東の強豪大への進路が決まって行く中で、自分の現状をまざまざと思い知らされた。
「それにプレミアリーグも経験している中で、本物のトップの選手はどういうものかを目の当たりにして来ました。そう考えると、僕の能力で関東や関西で勝負するのは厳しいかなとも考えました。そのときにIPUというまだ出来て新しい大学でサッカーをやるという選択肢が出て来たんです。僕らは9期生でこれからさらに歴史を作って行く段階。その一員として僕も成長して行きたいと思ったので、黒田監督に相談をしたら(環太平洋大の)桂秀樹監督と黒田監督が大体大時代の先輩後輩の関係だったので、すぐに決まりました」
客観的に物事を見た結果、彼はIPUに進学を決意した。
「みんなに『環太平洋大に行く』と伝えたら、『どこそれ?』とか『どこにあるの?』、『そんな大学あるの?』という反応だった。でも、年々全国大会に出られるようになったり、有名大が集まるフェスティバルなどにも出場出来るようになると、『IPU強いよね』とか『ゴリ(青森山田時代の平松の愛称)うまくなったよね』と言われますね。今年の夏に金沢で学、流帆、新潟医療福祉大の霞恵介とかと会ったのですが、『全然プレースタイルが違うやん』と言われて、凄く嬉しかったです」
IPUに入ると、自分が思っていた以上に学ぶことが多かった。
「大学では、苦手だった『止めて、蹴る』の部分を徹底してトレーニングすることが出来ました。高校時代に培った闘う気持ちと球際の強さに、足下が自分のストロングポイントに加わったことで、CBとしてやれることが凄く増えた手応えがあります。『大学生になってもまだまだ伸びることが出来るんや』と思えたし、そこは指導者の方々に感謝しかありません」
メキメキと頭角を現していった平松は、昨年にチームが4バックから3バックにシステムチェンジしたことで、3バックの左という定位置を確保した。不動の存在になっていくと、持ち前の統率力も発揮するようになり、4年生になるとチームのキャプテンを任された。
「青森山田は日本一を目指している集団で、全員の意識が高かったけど、大学に来るといろんな目標を持った選手が集まっているので、そこをどれだけベクトルを同じにしてやれるかを意識しました。青森山田での経験を生かして、言うべき所は言ってきた。最初はバラバラだったけど、徐々に聞いてくれるようになって、良いチームになっていった」
中国リーグを制してインカレ出場権を掴むと、冒頭で触れた通り、関東第7代表の東洋大の前に惜敗。キャプテンとしての役割はそこで終わった。
卒業後の進路はまだ決まっていない。(取材日時点)
しかし、サッカー選手を継続して行くことは決めているという。
「最初ここに来た時は、体育の教員免許が取れるので、先生になることも考えていました。でも、流帆や松木が1年の時からバリバリのレギュラーで試合に出て、全日本に入っている姿を見て、僕もかなり触発されました。流帆は比較的近いので、何度もご飯に行ったのですが、『絶対にサッカーを続けた方が良い』と言ってくれますし、『俺もプロになりたい』と話をしても、笑わずに真剣に聞いてくれる。そういう仲間が身近にいたからこそ、ここまでサッカーを一生懸命やれて来たのだと思います。今、まだ進路は決まっていませんが、サッカーを続けるつもりなので、JFLチームのお話もあるので、そこからいい返事が来たら、進んで行きたいと思います。せっかくここまでやって来たサッカーをやっぱりやめきれませんでした。仕事はもうちょっと先でも出来るけど、サッカーは身体が動く時しか出来ない。だからこそもっと続けて、松木や流帆と同じステージでプレー出来るようになりたいと思っています。しかも、松木は(IPUのある岡山を本拠地にする)ファジアーノに来るので、一緒にファジアーノでプレーをしたいという夢もあります」
悔し涙を滲ませながらも、ハキハキと将来の展望を語ってくれた平松。最後に彼はこう言い残してスタジアムを後にした。
「真面目な奴が最後に良い思いをすると言うのは、流帆と松木たちを見て思ったので、僕もそうしたいんです」