大学サッカー通信
第32回 大学サッカー通信 ~最上 達也(青森高校→東京学芸大学4年)
2019年12月05日
最上 達也(青森高校→東京学芸大学4年)
もがみ たつや
青森県青森市出身。筒井南小学校から青森FC、青森FCジュニアユースでプレー。青森高校3年時には主将を務めた。
掲載号
VOL.16(写真のみ掲載) VOL.34
取材日:2019年10月19日(土)
@拓殖大学グラウンド
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幼稚園でのサッカー教室がきっかけでサッカーを始めた最上。小学校3年生まで通えたという幼稚園のサッカースクールに小学3年まで通い、小学校4年生からは学校の部活動に所属。6年生で引退した時に「もっとサッカーがしたい」と青森FCに入った。地区トレセンで一緒だった青森FCの選手たちの影響であった。中学では青森FCジュニアユースでプレー。高校進学時は青森山田高校への進学も考えたというが、「サッカーに100%注ぐという決断ができなくて。勉強もサッカーも頑張ろうと思った」と進学校の青森高校へ進学した。
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青森高校3年時は背番号10を背負い、キャプテンを務めた。「1年生の時から毎年ベスト16でした。ベスト8には上がれなくて、越えられない壁でしたね」
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青森高校卒業後は、東京学芸大学に進学。「国立大学なので、勉強も頑張らないと入れない。サッカーも、関東2部に所属していて相当レベルが高い。青森高校では対戦できなかったような人たちが集まっているリーグなので、夢をあきらめるんだったら、行ったことがないステージに行って踏ん切りをつけたいなと思いました」。模索した結果、マッチしたのが東京学芸大学だった。
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1・2年生の時はCチームに所属。3年生になりBチームには上がったが、「多くの試合に絡むことができなくて、自分の実力を知った」という。入学前の練習見学では、期待しか抱かなかった。もっとやれると思っていた。しかし、入ってみたら全然違った。「それまでやってきた自信が打ち砕かれたというか。初めてサッカーに対してマイナスな感情を抱きました。どうやっても上にいけないな、と。入学してからの3年間は、あまりいい思い出がないかな。もちろん、一緒に過ごした先輩方はいい人たちで良い思い出もあるんですけど、サッカーの実力の面でいったら、あまり通用しなかったと思っています」
それでも、これまでずっとサッカーを続けてこれたのは、幼い頃からバックアップし続けてくれた両親への想いがあるからだ。親元を離れて感じた両親への感謝の念。「実際きつかったですけど、サッカーをやめるという選択肢は持てなかった。自分は支えられすぎていたなと思いました。ピッチで輝いている姿を見せたいなという思いがどこかにあったので、やめることは考えられなかったです」
4年生になり、BチームでIリーグに出場。前期は全試合出場し、1得点を挙げたが、後期は試合に出られず、「うまくいかない方が多い」という。取材日のこの日はベンチ外。「正直、もどかしい気持ちはあります。今日はこうなってしまった現実はあるので、しっかり応援して、次節はメンバーに入って点をとって勝てるように、明日からの練習で全力を出し切りたいという気持ちになっています」
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「東京学芸大学は教育学部しかないので、けっこう真面目な人が多いです。あとは、刺激を受ける人たちが多いですね。僕はサッカーのことしか考えてこなかったので、将来のことを考えるとなると全く材料がない状態でした。大学に入ってから知り合った人たちと、授業を通してだったりプライベートを一緒に過ごす中で、色々な選択肢が増えていったなと思います」
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サッカーと勉強の両立をしてきた最上に、青森県でサッカーをしている高校生たちへのアドバイスを聞くと、「自分が東京学芸大学を選んだ理由は、地元から離れて新しい環境に身を置くということ、今まで自分がいた上のレベルで、しかも勉強でも努力しないと入れないようなところが良かったから。自分のずらしたくない軸分に沿うもので、なるべく上を設定した方が、のちのち自分に返ってくるかなと思います」
大学卒業後は、不動産会社への就職が内定している。部活に支障が出ないようにやってきた就活。職種も業種も決めない中で、内定が決まった会社の担当者が「僕には一番居心地が良くて、一緒に仕事をしたいなと思ったのが大きな要因ですかね」という。さらに、「東京だと大きい建物がたくさん建っていて、見るたびに圧倒されるというか、かっこいいなって思う自分がいて。それが動機でも全然悪くないんじゃないかなって思っています。楽しめる自分が想像できたので、それが決め手ですね」。また、早くも就職してからの目標も掲げている。サッカーに情熱を注いできたこれまでの経験を活かして、第二の人生も全力で走り続けて欲しい。