大学サッカー通信
第10回 大学サッカー通信 ~ 菊池流帆(青森山田高校→大阪体育大学3年)~
2017年11月19日
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第10回 菊池流帆(青森山田高校→大阪体育大学3年)きくちりゅうほ
岩手県出身。
岩手県のFC釜石U-15に所属している時に、柴崎岳(ヘタフェ:スペイン1部)、櫛引政敏(ファジアーノ岡山FC:J2)椎名伸志(カターレ富山:J3)を擁した青森山田高校が高校サッカー選手権で準優勝を果たす。その試合を見ていた菊池は、青森山田に興味を持ち、青森山田高校サッカー部に入部。3年生になるまで公式戦の出場はなかったが、決して腐ることなく努力を続け、3年時にはインターハイベスト4に貢献し、大会優秀選手に選ばれた。選手権後には日本高校選抜に選出された。
青森ゴールVol.29/30/31/32にインタビュー掲載。
取材日 2017年9月
大阪体育大学
取材:文 森田将義
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まずは青森山田高校に行こうと思ったきっかけを教えてください。
僕は岩手県の出身なので、普通だと高校に行くなら地元の盛岡商業高校か遠野高校なんですが、中学2年生の時に選手権の決勝で山梨学院と試合をしているのを観て、青森山田の存在を知りました。そこから興味が湧いて、次の年に特待生を決めるセレクションを受けに行ったんですが、周りは関東の有名チームばかりの中で僕がいたのは岩手県の3部のチーム。僕自身も体力はないし、足も遅いし、下手だしで何も取り柄もありませんでした。セレクションで、プレーしたのも6チームの中で、一番下のチーム。レベルがあまりにも違って、一切通用せずに落ちたのですが、“コイツらに負けたくない”と思い、一般生として入ることにしました。
入学してからも一番下からのスタート。決して楽ではなかったと思います。 入学してから、2週間はひたすら走りのトレーニングをしたのを覚えています。『ラッコ』と呼ばれる学校の周り5kmを2周するメニューがあったのですが、中学の時は体力がなかったので、入学前に走り込んで、周りに『アイツは凄い』と思わせるつもりでいました。ただ、いざ蓋を開けてみると、ビリから2番目。次にやったタイム走は、7人1組で全員が規定の時間内に入れば終わるルールだったんですが、僕だけ入れず、周りから『何なんだよ』という目で見られていました。初っ端からそんな感じだったので、サッカーを辞めたくなりましたが、『どうせ山田では無理だろ』と思われていた地元の人らを見返したかったし、応援してくれている親のためにも諦めちゃいけないと思っていました。
その頃から、センターバックだったんですか? 入った時はサイドハーフでした。でも、入学してすぐのゲームでMF山下優人(現・桐蔭横浜大)とかとマッチアップするとレベルが違い、全部ボールを獲られたので、『これは無理だ』と思いました。でも、ヘディングだけは出来たので、Dチームのコーチに『センターバックできます』と言って、コンバートしてもらいました。ただ、実際にやったのは中学時代に1,2回だけ。口から出任せで言っただけだから、ラインコントロールもできないし、対人も弱い。本当にヘディングしかなかったので、とりあえず頑張ることしかできませんでした。
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上手くなるためにどんな工夫をしたか教えてください。 2歳上の山さん(山田将之、現・FC東京)に凄く憧れていたので、同じようなプレーができるように、朝練でヘディングをしたり、足が遅かったので、アジリティーの練習をしました。でも、高1の時は1500mを4分50秒で走れないと朝練ができない決まりがあり、最初に走ったタイムは6分45秒で、ダントツのビリ。タイムに入れるようになるまで、2か月くらいずっと走ってました。
2年目になると、少しは成長を感じましたか? 2年目はCチームでのプレーがほとんど。何度かBチームに上がったりもしたのですが、僕のプレーがひど過ぎたせいで、何度も練習が止まったり、千葉(貴仁)コーチに怒られたりして、定着できませんでした。夏にBチームの遠征に連れていってもらっても、ファールが多すぎて、『プロレスラーか!』と怒られたりもしました。転機が来たのは、選手権前の遠征です。選手権のメンバーから外れた次のAチーム候補が行く大会のメンバーに選ばれました。2チームに分かれていて、僕は最初、Bチームだったんですが、Aチームが大敗したのがきっかけで、途中からBチームになりました。準々決勝で地元の盛岡商業と対戦し、『やってやろう』と思っていたら、得点を決めることができました。
その頃から、やっと手応えを掴んできたんですね。 やれると思えたのは、2年の選手権が終わった後です。冬の間の雪中サッカーは上手い下手じゃなくて、気持ちが大事で、僕にとっては得意分野。ゲームで相手をたくさん止めたり、活躍できました。黒田剛監督に初めて声をかけられたのも、その頃です。練習後に、一人でヘディングの練習をしていたら、『ヘディングが苦手なのか?得意なら、できないことをやった方が良い。そうしたらチャンスは必ず来るぞ』と声をかけてもらい、見てもらえているんだと嬉しかったです。その後の東北新人大会は最初、メンバー外だったのですが、チームメイトが怪我したので、急きょメンバーに入れました。試合当時になると雪が降って、これはチャンスだと思ったのを覚えています。相手もロングボールをたくさん蹴ってきたので、ヘディングで跳ね返し続けたら、そこから試合に出続けることができましたし、インターハイでも全国3位になれました。
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青森山田での3年間が大学に活きていると感じることはありますか? 高3の3月に行ったサニックスカップのことはよく覚えています。大会のベスト11に選ばれたのですが、調子に乗ってしまって、直後の遠征ではプレーがまったくダメでした。その時に黒田監督から怒られたことで、念願のAチームで活躍して満足していた自分に気付いたのです。もっと上を目指さなきゃいけないとも思いました。
そうした高校時代の気持ちを今も忘れないようにしていると。 この間ふと、もし明日死んだら後悔がない人生を送れただろうか?と考えたことがあって、まだダメだ、もっと1日1日を本気で生きないとダメだと思いました。高校時代はもっと本気で生きていたと思いますし、高校の時は周りから見た僕は『アイツ下手くそだけど、凄く頑張るなー』など面白い選手だったとも思います。でも、今の自分はやれることは増えた分、中途半端になっている気がします。頭で理解していても、行動に移せないから今の自分はダメだと思うんです。
高校時代の時の方がもっと必死だったということでしょうか? 高校の時は練習でも皆ハングリーで意識が高かったので、それに負けないように練習できたのは良かったと思いますし、サッカーに一途でした。僕も反骨心の塊で、練習中も味方に削られたら、削り返そうとしたり、トゲがありました。ユニバーシアードなどで海外の選手と対戦しても感じるのはそうしたガムシャラさで、プロの世界で活躍するには大事な部分だと思うんです。でも、人ってすぐ忘れてしまうから、常に新鮮な気持ちでいるといいますか、高校の時みたいな気持ちを思い出さないといけません。これからも、僕の原点であり、初心である青森山田での3年間を忘れず、目標に向かって頑張っていきたいです。
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